葬儀は遺族ケアのため、遺族ケアが死にゆく自分のため
「葬儀は遺族ケアのため、遺族ケアが死にゆく自分のため」
東広島さいきグループ 代表兼僧侶 柚木 力
日本人という民族は始まりと終わりを大切にする傾向にあります。例えば「いただきます」と「ごちそうさまでした」。誕生をみんなで祝い、死も皆で悲しむという儀式は文化心理学的に見ても極めて重要です。戦前は葬送というものは身寄り(みうち)で行うものでした。徐々に組内で行うものになり、やがて社会のつながりが参列するようになりました。そして今、また身内で執り行うという流れに戻ってきております。これは逆三角ピラミッドの人口動態が大きく関与した結果ですが、何か嬉しいことをしてもらったときにありがとうと返すのと同じで、家族の誰かが亡くなったときに、皆で弔うということは当たり前なんですね。これを忌み嫌ってむやみに省こうとする風潮は自然ではない。逆に、直葬だけした遺族と、小さくても普通にお寺さんを招いてのお葬式をして四十九日まできちんと行った遺族の、その後のメンタル異常を期した確率を調査すると、お寺と付き合いをちゃんとした家庭のほうが精神異常を来しにくいという結果が出ている。誰しも近親者の死によって、精神的負担が襲うのは仕方ないが、元の社会生活に復帰するまでに初七日、二七日、そして四十九日という一つの節目の儀式。その都度、住職さんからいろんなお話を伺ったり、自分を見つめていくことによって徐々に心を整えていくという。葬儀は単なる遺体処置に終わってはならないし、故人をより深く知り、よりしっかりと記憶する機会でもあるのです。また、遺族にとっての医療福祉に対する予防的投資という側面さえ潜在しております。それぞれにとっていい記憶となるお葬式。これは一生なくなるものではないと考えていて、それが理想的であると思います。また、神戸赤十字病院では龍谷大学の臨床宗教師(欧米の病院で心のケアをするチャプレン氏の治療方法)の講座を受講している僧侶が、患者の声に耳を傾ける「傾聴」の勉強を行っていて、医療現場にも心のケアという意味で宗教の力が参入し始めた。「医療×介護×仏教」という連携の中で、医療機関や介護事業者ら連携し、例えば退院後に一人暮らしとなる高齢者を訪問し、「一人で死んでいく不安」「なぜこんなつらい思いをしてまで生きているのか」といったスピリチュアルなケアに向き合う動き。「死後は自分が供養する」と語ることが宗教者の役割。それこそが死にゆく人の安心感につながるとのこと。誰しも自分が死ぬ日の予約はできません。今日とも知れず、明日とも知れず…です。また、一時期高齢者の間で終活がブームになりましたが、結局のところお墓や仏壇を用意しても本来の目的は達成されたわけではなかったし、子供たちに迷惑をかけないことが人生の最終目的というわけでもないだろう。大切なものが何かをご自身で少しずつ考えたり取り組んでみたりすること、それが家族や周囲に対するあなたの生き様であり、最後に自身の死をもって命の教育を行う機会なのだと考えています。
引用:カールベッカー(京都大学政策のための科学ユニット特任教授)、月間フューネラルビジネス6月号、終活読本「ソナエ」