都合のよい解釈→苦難が待ち受ける
我々は東広島のような山間部の田舎な地帯にあって
たとえばたった半径10km、20kmの中に何万人も・・・が住んでいる。
よく過去と他人は変えられないと言われますが
しかし過去と他人は解釈によっては変えられるという人がいる。
さあどっちなんでしょう?
今日はそんなお話です。
思うままに信じて生きることが自分の欠点と自覚している人も世の中にはたくさんいますよね?
私はそっち派です。
変わるのか、変えるのか。
変わるつもりが無いのに変わってた・・・
変えたいのに変えられない・・・
そんなこともあるでしょう。
短気が欠点の人、
やさしすぎるのが欠点の人。
少々の短気が可愛らしくて愛される人・・・いますよね、
少々優しいほうが他人様には好かれいる人、いますよね。
これはどういうことかと言いますと、
「闘犬の中にいれば相手を殺しに行くぐらいでちょうどいい、しかしドッグランの中では許されない犬」となるわけですがね。
「逆に人間社会にあっては「人」なんてものは周囲の環境が千差万別です。人間なんて、喜怒哀楽すべて「人」に始まり、「人」に終わる。すぐに一喜一憂しがちな弱い生き物であって、悩める行為は決して悪いことではなくて、それが人間として持っている唯一の特権であり、そこらの小動物にはないもの。」
未来は見えないんでしょう? だとしたら「答えの見えない自分」だからこそ、答えを見ようとする必要もどれだけあるのか?誰も自分と同じテンションで生きていない・・・それが人生です。
ちなみに座禅、あるいはスポーツの試合前に行うのは「眼を閉じて」「イメージトレーニング」だったり、無になるという名の瞑想だったりしながら、自己実現のために行ったりしますね? 目を閉じてなんて・・・見たいのか?見たくないのか?(笑)
ちなみに、最近は見えないものを見る力を養うセミナーが流行していたりします。
ということは、見たい人は見える努力をすればいいし、どのみち、願った通りになると確信しているんなら悩む必要はもはや存在しないw
見えないのか、見たいのか、見たくないのか、はたまた見せたくないのか、はたまた見せたいのか。
そこで私はこんな言葉を思い出だすようにしています。
「運命を開くのは、大きな努力はなく、小さな習慣です」と。
さいごに
自分が信じた道を進めばいいとか、自分の人生の過去にどういう意味を持たせるかで未来の価値が高まるとか、あれこれ理屈はあります。
また、そもそも宝くじなんて当たらないけど、でも1枚でも買わなければ絶対に当たらないなどといいますが、
そもそも人を変えるとか、自分が変わるとか、過去を変えるとか、未来を変えるとか、点と点をどういう線で繋ぐのか・・・といった見えない話じゃなくて、
まず家の中を掃除しましょうよ。身の回りをお片付けしましょうよ。ご仏壇、お墓があるんなら定期的にお花を供えましょうよ。普段乗っている車を洗車しましょうよ。台所をきれいにしましょうよ、トイレを掃除しましょうよ。デスクトップの無駄なアイコンを削除しましょうよ。お礼を言い忘れている人に連絡しましょうよ。布団干しましょうよ
もっとその前に、自分を包んでくれている周囲のメンバーに敬意を払いましょうよ。
人生の目標を立てたり夢を見て語る前に、まずやることがある。
まして会社なら売り上げ目標立てるときには必ず人を巻き込むんだもんね。うん
それに、まずやるべきことをやってるだけで人生の大切な時間の大半は終わっちゃうってなもんです。
人は綺麗ごとでは愛せない。そして愛されることもない。
じゃあ愛される事を望むより愛するほうが良いという説もありますが、いくら愛しても愛されないことの連続・・・それが綺麗ごとではないことの所以(ゆえん)であり、それが人生です。
あえて申し上げるとすれば、自分を信じなさいと声を出すのも良いが、自分に正直であれと。
社会で生きていくということは、ほぼイコールで「常に都合の悪い事と折り合いを付けながら生きていくこと」とも言えそうじゃないですか?
何かに集中していたら夜中になってた・・・みたいなもので、「今」に邪念や雑念がなく生きていれば、
過去がどうとか、未来がどうとか、人のことがどうだとか、自分がどうだとかを「今の一瞬」に考える猶予はないのかもしれない。
極力、社員にもですが、自分にもですが、イキイキと過ごしていこうと思えば小難しい話をしないことが大切です。
私は、できればもっと釣りに行きたいです。うん