そもそもお墓、どうしますか?
私なら、残された家族にこう記したいと思います。
「もしも私が死んだ時は、本寺にのど仏を分骨してもらい、残りの遺骨は人の心も気候も温かい九州のどこぞ好きなところに撒いてくれ。死んだあとぐらい温泉まちでのんびり暮らしたいんだ」とね。
さて、私はよく海の景色を目にします。
最近、海洋散骨のことを取り上げたテレビ番組を目にします。
自然葬と言われ、粉末状にした遺骨を海に流すのです。
自然葬には樹木散骨も含まれます。
国有林を含めて他人の土地に勝手に土に埋めると埋葬法の都合により違法ですが、
パウダー状にして、自然に還すのは認められており、いまでは全国的にも散骨を請け負う会社が
いくつも存在しております。
現在、台湾ではお墓の場所が足りなくて、合同墓で合祀を国が進めています。なぜなら場所がないから墓地価格が高騰しているのです。お金があれば墓地を高値で買えますが、言い換えると、お金がないと墓に入れない。亡くなられた後までも、ランク付けされてしまうのか!という。
無論、供養の気持ちは大事ですし、ご先祖様や身近な家族にはいつまでも近くにいてほしいからお墓というものは大事です。
しかし宗旨・宗派によっては、お墓や骨に参るのではない!あくまでもお念仏を唱えること、あるいは名号、ご本尊様に参るのだという教えが基本です。
簡単にいえば、亡くなった故人を崇拝するのではないという教えです。
さて、全国的に多く、広島では8割と言われる浄土真宗。その開祖・親鸞聖人は、ご自身の葬儀や埋葬について、弟子に指示はしておられませんでした。しかし本願寺の第3世・覚如上人が親鸞聖人の教えを『改邪鈔』の中に、こう記しました。
「本師聖人(親鸞)の仰せにいはく、某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべしと云々。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。」(浄土真宗聖典註釈版 P937)
さて、最近はテレビ番組で、やたらと生前整理や、墓じまいのお話が出ていますね。
私はこう思います。
これからもお墓という文化が無くなることはない。
しかし
これからは自然葬という文化は増えるであろう。
そもそも、形は変わりゆくが、「供養していきたい気持ち、あるいは信仰心」というものが
この世から無くなることがないのだから。
ただし、おひとり暮らしの増加や、一人っ子の高齢化、少子高齢化時代ですので
浄土真宗のお寺様がおっしゃいますように、お念仏を唱える中でお浄土へとお導きいただくことであれば
いっそのこと納骨堂も通り越して散骨というものは一つの文化になり得るものと考えております。
広島県で8割と言われる浄土真宗の門徒にとって、子どもに迷惑をかけたくない、あるいは継承者が不在、あるいは今の代で家が途絶えるご家庭ですと
京都の本願寺大谷本廟に分骨し(数万円で出来ます)、多く残った方の遺骨を親鸞聖人のように自然に還すというのが、もっともシンプルな形なのかもしれません。