矛盾の方向に向かっている葬儀屋事情
命の意味を知る一番のチャンスが実はお葬式なのです。
そうではなくて、日常から命の意味を考え、ありがたさを考えましょうと言うのが多くのお坊さんの言葉ですが
しかし実際は毎日TVニュースで流れる事件事故よりも何年かに一度訪れる身内や知人の死。
これによって多くのことを考えさせられたりしながら生きるとか今の一瞬の尊さを学ぶ事が多いですよね。
凶悪な事件や事故のニュースからはため息や不安に駆られるのが関の山ですよね。教訓にはなってもね。
実は今、葬儀屋業界は上の立場のほうの方々が揺れに揺れています。本来、そんなことは
やっちゃいけないって分かっていることなのに、それをやらないと評判が落ちそうだからということで
やっている。
それは何か?というと
「手抜き」
です。その手抜きとは・・・
「死者を利用して飯を食う」ということです。
どういうことだ?となりそうですが、つまりは
その典型が「こうしたら喜ぶんじゃないか?」ひいては「流行るんじゃないか?」という「葬祭サービスにおける青い鳥探し」です。
いちおう僧侶の私の意見としては
「ねえ、最近の葬儀業界さんよ、死者を舐めないでくださいよね」であります。
そもそも葬儀屋はイベント屋じゃない。
そして遺族は感動や悲しみを演じる役者じゃない。
それに喜ばれるサービス?葬儀での喜びは、いわゆる日常での喜びではないことを知りなさいと。
葬儀での喜ばれるかどうかは「当たり前」が出来ているかにかかっている。
その当たり前は英語でいえば「ホスピタリティ」であり、日本語の切り口でいうと「三方よしの精神」であり、
言い換えると「good for everyone」
意味を少し付け加えると「everybody doing well」
そもそも葬儀屋のお仕事とは、ご家族やご遺族サイドでは出来ないところをきちんとお手伝いすること。
それが葬儀屋のそもそものお役目です。場所をお貸しするのもそういった理由からでした。しかし数年前から儲け主義の横行でホールが乱建されましたがね。
様々な基本が抜けていると「肝心なことを追い越してしまって、葬儀をイベントと化する葬儀屋」が多い。
また、「これからのお葬式はこんなあんな風になりますよ」「こんなあんなサービスが当たり前の時代が来ますよ」
と様々な商材を営業にくる会社がありますが、是非そうなってから来て見てくださいといいたい。
そうなるかもしれないし、ならないかもしれないものに、そう簡単にうちがそれに力を貸すわけにはいかない。
「死者を利用して飯を食う」
ではなく
「困った方々の飯となれ」。
困った方々に真摯に向き合い、お力添えする我々の費やさせていただくその時間が、相手の飯になるんです。
だから「こちらの利益目的」で安易に新商品に飛びついたり、一部地域で成功している同業社のやり方に飛びついたり、マネたりパクるようなことだけは絶対にしない!と強く胸張って信じる自分だけの道道を邁進する社長が増えることを私は祈ります。
あなたは24時間戦えますか?(自分自身と)
あなたは自己犠牲の上で人に奉仕が出来ますか?
それを自分の一生の仕事だと誓えますか?
難しい方の方が多いですよね。
なぜなら葬儀のお仕事って、限られ、選ばれた人間にのみ与えられたお仕事だからです。
では今日はここまで。いまから地元の寺院葬のお仕事が入っているので、準備に入ります。