丁寧だからこそ決断できるもの
よく腹をくくれば怖いものはない!などと言ったりしますね。しかしそれは不可能ですね。
腹をくくっても出来ないことがある。腹をくくってなくても出来ることがある。
すべては自分がどうとらえるか?の習慣です。
自分自身がそれをすぐにでも「やるのか」「やらないのか」で考えなければ成長はありません。
いつも言いますが、耳への響きの良いような綺麗な言葉は、それ自体が腑に落ちるものではありません。まさに綺麗ごとですね。
なぜなら、僧籍を頂いた私が言うのも変かもですが、お経が良い例です。そう簡単には腑に落ちません。何百回唱えて、意味を真に理解しようと努めて、照らし合わせながら体で覚えていく。何か覚悟決めて腹に据えたところで、たった自分が腹を決めた!と言ったって、若輩者の覚悟なんざ人生の先輩から見れば大したことじゃないんです。
私、僧侶となり毎日お経を唱え、意味を教えていただいておりますが、同じ一節でも
成長するたびに解釈も変わるし、それでいいとされる。むしろ苦しみながらでも真理を追究する事こそが正しい姿なのであります。
最近、ネット社会が成熟してきたからなのか何なのか分かりませんが、コピペ人間が本当に増えています。
これ、ことわざで言うと「受け売り」ってやつですが、言葉の上っ面(うわっつら)を簡単に捉えて表現することは
本当に心に響きません。
腑に落ちないというのは、2次元だからそう思うのであって、例えばテレビの世界のすごい人の言葉よりも、自分の親の何気ない一言のほうが腑に落ちることが多いというのは3次元の現実世界だからであると考えています。
実は社長である私はほんの数年前まで、6年間のうち毎年毎年、鎖骨を何度も折りつぶされ、背骨は折れたり、今でも手の小指は骨折の影響で曲がらないし、右足は1000℃の熱風で大やけどするわ、最後には右足をバックリ折って、ドクターヘリにも乗りました。いまでも後遺症との戦いでありますが、まさに命がけの6年間を送っておりました。いわゆる戦地に赴いていたといいますかね。何人かの仲間は命を落とし、その何十倍の仲間はケガで去っていった。いま私自身が五体満足であるか?といわれればそうではないが、こうして思いを伝えていられるということには感謝せねばです。
目標を立てて、達成するまでは自分の命よりもその目標達成のほうが大きくて、そのための痛みなら何でもなくて、だから道中の少々の事にいちいちグダグダ能書きなぞ垂れない。能書きを垂れてる間は、集中していない証拠であります。
現にマラソンランナーが練習の時に「もしも心臓発作が起きて死んでしまったらどうしよう、もしも足首をねん挫したらどうしよう」と言う選手はいないでしょう。
最後に、腹を据えるとか覚悟を決めるという言葉は、据えていなくて決めていない人間が言う言葉であります。すでに腹が座っている人間は口にする必要もない。全てを受け入れているからだ。そして腹や覚悟というものは、嘘つきや大雑把な、つまりは誠実ではない人間には決められるものではありません。誠実で丁寧な裏付けのある生き方をしている人にこそ、大胆な決断が出来るのであります。裏付けもなく覚悟を決める人間はただの○○です。
やられたら、やり返そう 恩返しだ
実は最近まで2輪オートバイロードレース国際A級選手で、全日本選手権をはじめ世界選手権にも出場しておりました。努力するごとにスポンサー様にも恵まれ、引退直前には走るマシンも用意されていて、自分は走ることに集中できる体制になっていました。また「時速200㎞以上の世界であと30㎝近いと即死」という事故も経験し、レーサー時代に体験した生死の境を追求する精神修行が今となっては多大な財産です。
生きるか死ぬか・・・
生き抜いて勝ち抜いた先に栄光がある。